社長の「雑観」コラム

MS&Consulting社長、並木昭憲のブログです。 未来を担うビジネスマンや学生の方々に向けて、 政治・経済・社会・経営などをテーマに書き進めています。

Vol.128 終戦の日 ~『神やぶれたまはず』と国家主権~

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8月15日、平成最後の終戦の日が過ぎました。

靖国神社参拝の際に購入した冊子『英霊の言乃葉』に感銘を受け、例年にまして「あの戦争」と「敗戦」について考えました。

 

何に感銘を受けたかというと、第一に当時の方の文化レベルの高さです。例えば多くの辞世の句が載っていますが、とても私には詠める自信がありません。

第二に、子どもや家族を案じ、日本の行く末を祈念する。両者のバランスには個人差がありますが、『軍人たちは、みな、しつかりと自らの目で自らの死を見つめ、まさに「覚悟」といふ言葉の本来の意味での覚悟をつかみ取つて』(出典:『神やぶれたまはず』 長谷川三千子著 中公文庫 P26)いるからです。

 

8月になると「戦争の記憶を風化させるな」とよく言われますが、何故・何を風化させてはいけないのか、自分なりの腑分けをする必要を感じました。

 

  • 神やぶれたまはず

長らく疑問に思っていたのですが、戦争末期、日本は「本土決戦」を叫びながら、言を翻して降伏します。

本土決戦によって被る被害を考えたら、私も生を受けなかった可能性が高いわけですから、理性では納得できますが、感情的にしっくりしない。後に続くと信じて散っていった英霊たちに対して、何か罪悪感を感じてしまいます。

戦後生まれの私ですらそうなのですから、当時、本土決戦=死を覚悟していた国民は、簡単に「助かった」と割り切れるものではなかったでしょう。


先ほど引用した長谷川三千子氏の著書『神やぶれたまはず』では、そうした皇国少年・皇国青年の心情を、桶谷秀昭『昭和精神史』、太宰治トカトントン』、その他にも三島由紀夫ら多数の著作を引用し、深掘りした上で、一つの解釈を示しています。


『八月十五日正午に放送された「終戦詔書」は、天皇ご自身の「自分はどうなつてもよい」といふ決意に裏打ちされたものであり、その時点において、このご決意は実質的に「死のご覚悟」であつた。(それによって)国民たちに命が返却される(国民の命は救われる)』(出典:同書P252 ( )部並木加筆)。


竹田恒泰氏も、日本を「君民共治」の国と表現しましたが、

『形の上では(他国と)同じ「立憲君主制」でありながら、「上下心を一に」することを国体の柱としてきた日本国民にとつて、天皇の命とひきかへに自分たちが助かるといふ道は、取りえない道・・・・・・であつた。といふことはつまり、降伏は不可能だ、といふことになる。

ところが一方、「蒼生安寧」(天皇が民の安寧を第一のこととして常に心がけられること)を政治の第一原理として神代の昔から引きつがれてゐる天皇陛下にとつては、一刻も早く降伏を実現することこそが「国体」にかなつた道だといふことになる』(出典:同書P259-260、256 ( )部加筆)。

この美しくも、絶望的な怖ろしいジレンマを、昭和天皇が「自分はどうなってもいい」という「ご聖断」で乗り越えられたのです。

 

私はこれまで、「終戦の日」という呼び方を潔しとせず、「敗戦の日」と言っていましたが、この本を読んで、天皇陛下のご覚悟による「終戦の日」という呼称を素直に受け入れられるようになりました。

 

  • 先人に護られた命

大日本帝国憲法天皇主権を誤解している方もいらっしゃるかも知れませんが、

明治憲法の実際の運用においても、天皇国務大臣の『輔弼(ほひつ)』どおりに行動する、国務大臣の意思に反して天皇が単独に行動することはない、という原則が確立されていました」(出典:『天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか』 竹田恒泰PHP新書 P51-52)

ので、天皇が能動的に政治に関与せざるを得なくなったのは、恐らく、クーデター(未遂)によって内閣が機能していなかった二・二六事件と、この「ご聖断」の二回のみだと思います。

 

以前、「硫黄島の戦い」について紹介した際、「硫黄島で約2万人の方々が、およそ40日間戦いを引き延ばしていただいたお陰で今ある命」、生まれた命が必ずあると書きましたが、

Vol.23 感謝と誇りを考える ~安倍首相の硫黄島訪問~ - 社長の「雑観」コラム

我々は、数多くの英霊、そして昭和天皇に生かされているということを忘れてはなりません。

 

  • 風化しない戦後体制

さて、一方で「戦後レジームからの脱却」を掲げた第一次安倍政権が短命に終わったように、占領下でつくられた日本国憲法を一字も改正できていないように、戦後体制・戦後史観は風化どころか、頑健に日本に乗っかったままです。

拉致被害者を未だに取り返せずにいることも然り、少子化さえ(私は最近まで第一次オイルショック後に「静止人口を目指す」と記した1974年の人口白書が端緒かと思っていたのですが)GHQ占領政策に根っこがありました。

日本の少子化は、GHQによる〝人災〟だった

戦争は1945年8月15日ではなく、7年間の占領を経て、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効まで続いたのです。その間の歴史も腑分けが必要でしょう。

 

  • 主権意識の衰弱

何故かというと、青山繁晴氏の言を借りれば、

『諸国はどこであれ戦争に負けた歴史を持つ。<中略>

ところが日本は、オリジナルカレンダーの皇紀で言えば建国、すなわち古代の時代に統一国家の概念を持ったことを意味する神武天皇の即位から実に2605年後に初めて負けた。負けたことのない国がついに負けた。敗戦はこのたった一度きりだ。

だから、いまだに「勝ったときではなく負けた時にこそどうするか」が分かっていない。

分からないままなら「とにかく敗戦前の日本が悪かった」と自らの父祖を闇雲に否定することになるし、「とにかく勝ったアメリカの言うことを聞けばいいんだ」となってしまう』。(出典:『ぼくらの死生観-英霊の渇く島に問う』 青山繁晴ワニブックスPLUS新書 P295~296 漢数字をアラビア数字に変更)

からです。

 

もっとストレートに語っているのは、『右の売国、左の亡国』(アスペクト)の著者、佐藤健志氏です。

闇雲に日本が悪かったと思えば、日本否定(ストレートな亡国)の平和主義となり、片や対米従属の肯定(親米保守)となる。

どちらに行っても日本の主権は希薄になります。

 

日本に正義があったのか。

意見は様々でしょうが、少なくとも欧米列強の植民地となっていたアジア各国の独立に影響を与えたことは間違いありません。

しかし逆に、日本の独立・主権意識は衰弱してしまったのです。

 

冷戦期は米国が社会主義からの防波堤として日本を護り、経済成長も許容したので、それでも通用しました。

中野剛志氏が言う「世界第二のGDPを誇る軽武装の国というおとぎ話」を体現できた訳です。

Vol.112 北朝鮮危機と国家主権 - 社長の「雑観」コラム

 

冷戦崩壊後、日本はバブル崩壊からデフレに陥り、経済成長が止まります。

この時期は、米国が「日本機関車論(第一次石油危機後の世界不況を脱するため、米国と共に日本も牽引車とするという考え方)」から「日本財布論(金融を自由化させ、日本人の貯金をアメリカが「借り上げる」ないし「巻き上げる」という考え方)」(「 」部は『維新・改革の正体』 藤井聡産経新聞出版 参照)

Vol.56 G20と日本機関車論 - 社長の「雑観」コラム

へと移行していく時期と重なり、残念ながら平成の御代とも重なっています。


対米従属であれば当然、シカゴ学派新自由主義)によるグローバリズムに染まり、グローバリズムは政治(国家主権)に対して市場経済優先ですから、緊縮財政・構造改革を推進。デフレが長期化して、国内の投資先不足が続き、日本財布論に貢献し続けています。

 

一方の平和主義は、自国の防衛政策を縛り、北朝鮮の拉致・核開発、中国の急速な軍拡に対して、取れる選択肢は米国頼み。米国次第で危機に晒されかねない状況に至っています。

 

世界に目を向ければ、米国主導でつくったNATOWTOといった戦後体制を、トランプ大統領自身が批判しているように、戦後の枠組みは変わりつつあるのです。

 

個人に置き換えてみると、環境が変化する中で困難に立ち向かう時、必要なのは、必死に考えながら、議論や交渉など努力と実践を続けること。及びその源泉としての自己肯定感(逃避したり、諦めたりせず、他者依存は勿論、他者との比較で自己を判断するのではなく、自分の存在意義を肯定できる感情)ですが、国家も同様でしょう。

我々は、経済・国防・自然災害という危機を見据えることで(あるいは乗り越えるために)、母国への誇りと主権の大事さを再認識し、育むことが不可欠な時代を生きているのだと思います。