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社長の「雑観」コラム

MS&Consulting社長、並木昭憲のブログです。 未来を担うビジネスマンや学生の方々に向けて、 政治・経済・社会・経営などをテーマに書き進めています。

Vol.91 エリートの劣化

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  • 舛添氏の私的流用問題と「エリートの劣化」

東京都知事舛添要一氏が数々の政治資金の私的流用問題で辞任に追い込まれました。


事の経緯は報道が溢れていますので、食傷気味の人も多いでしょうから割愛しますが、メディアだけでなく、議会でも「せこい」と批判されるような私的流用が相次いで発覚。最初は強気に出たものの、批判が収まらないと「報酬減額」から「無報酬」へ、「心を入れ替えたい」から「東京五輪への悪影響が出ないようリオ五輪までは」へジリジリと後退。

そこには言葉の重みというか、一貫性・誠実さが感じられず、説明責任を果たそうとしなかったことと相まって、自ら火に油を注いでいたように見えました。

 

今回は、この件をキッカケとして「エリートの劣化」という問題について考えてみたいと思います。

 

何しろ舛添氏は東京大学法学部を卒業、東京大学助教授・タレントとして活躍した後、2001年参議院選挙の比例区でトップ当選、厚生労働大臣も経験、一時期は世論調査で総理候補No.1にもなった、いわゆる“エリート”であるにも関わらず、今回の顛末に至ったわけです。

 

国民や都民から選挙で選ばれて国政・都政を決定する政治家の方々を、いわゆる“エリート”と表すならば、都知事選挙、さらにその前に行われる参議院選挙で、我々は早速、立候補者の資質と自らの「人をみる目」を問うことになります。

 

参院選では、アベノミクスを巡る経済政策が中心的な争点になりそうです。国民を豊かにする経済政策は勿論重要ですが、私としては同時に、

・舛添氏の問題で脚光を浴びた「政治資金規正法」の改正案も、政治家が自分たちの既得権をどう制限するかという意味で、

・さらに言えば中国の軍艦が尖閣諸島の接続水域や鹿児島県口永良部島(くちのえらぶじま)の領海に侵入する中、国家・国民の将来に向けた安全保障問題に関しても、

候補者毎に様々な立場・意見があるでしょうが、具体策を聞きたいと思っています。私なりの選挙の争点といったところでしょうか。

 

さて、政治資金規正法について。

私自身の不明を恥じないといけませんが、「規制法」ではなくて、「規正法」なのですね。今回初めて気づきました。

類義語ではありますが、規則によって統制・制限するのではなく、「大枠のルールに則って(恐らく)自分たちで正しましょう」ということでしょうか。

もともとザル法と呼ばれていましたが、その実態を初めて知った方も多いと思います。嘉悦大学教授の高橋洋一氏によれば、資金使途に関しては、本人が政治資金だと言えば「株式と不動産を買わない限り、明確な違法にはならない」とのこと。

舛添氏が第三者機関として雇った弁護士の方(自分が雇っておいて第三者機関と言えるのかという批判もありますが、ここでは脇に置きます)も、調査の結果、「違法ではないが不適切」と繰り返していました。

となれば、他の政治家も同じようなことをしている可能性があるということです。

 

我々の払っている税金が政党助成金として使われている以上、規制によって明確な線引きを行い、個人の資質ではなく仕組みで縛るべきで、今回の事件を経ても改正しないのであれば、それこそ「エリートの劣化」と呼ぶべきです。

 

今回、繰り返し使っている「エリートの劣化」とは、実は、評論家の中野剛志氏が新自由主義批判の文脈で語った言葉です。


内容が経済政策に変わりますが、その概要をご紹介させて頂きます。

「1970年代の先進国は、インフレと不況が同時発生するスタグフレーションに苦しんでいました。それに加えて例えばアメリカは、ベトナム戦争財政赤字の肥大化、人種差別、ウォーターゲート事件といった問題を抱え、政治への信頼が失われていました。

そのさなか、政治学者のサミュエル・ハンティントンらは先進国が抱える難題をめぐって「統治能力の危機」という問題を取り上げます。

彼らはその原因を、民主主義の過剰にあると診断しました。つまり、60年代にベビーブーム世代の大量の若者がウッドストックに集結したような現象に対し、『彼らは権威に反抗して政治への参加や福祉の充実を要求しているが、責任は取らない。そのような民主主義のあり方は「行きすぎた民主主義」であるというのです。』」

(出典:『グローバリズムが世界を滅ぼす』中野剛志ほか 文春新書 P189~P190を要約 『 』部完全引用)

 

行き過ぎた民主主義によってポピュリズム大衆迎合)に陥り、統治能力が低下したというわけです。

引用を続けます。

 

「そして、統治能力回復のため、エリートによる統治の復権に期待をかけたのですが、『1980年代にエリートが採用したもの、それが何と新自由主義だったのです』。

しかも、ハンティントンらの考えと逆に、レーガン大統領や小泉純一郎首相は、むしろ過剰な民主主義に乗っかって圧倒的な支持を受けました。

新自由主義の理論それ自体は、中身の薄い劣悪なイデオロギーにすぎません。にもかかわらず、』それを採用した『理由は何か。これはもう、エリート層が劣化したからというほかありません。』
『たとえばこういうことです。国家が経済に介入し、適切に金融市場を制御し、グローバルな資金移動を規制するには高い統治能力が必要です。規制しすぎるのも良くないが、規制しないのも良くない。ちょうどいい程度に規制するのは、相当の統治能力がないと難しい』のです。
しかし、市場に任せよの新自由主義であれば統治責任を放棄できる。そして、政策の結果起こった格差拡大などの問題を責め立てても、政権側は「自己責任ですから」「市場原理なので仕方がないのです」と責任を負わずにすむため、不思議なことに政権が長続きするのです」

(出典:同上 P190~P193を要約 『 』部完全引用)

といった具合です。

 

エリートの劣化とは、政治家や行政機関の統治能力の欠如や統治責任の回避であり、社会的地位や権力・権限、あるいは財産を保持する者には責任や義務が伴うという意味のフランス語「ノブレス・オブリージュ」の放棄です。

 

もう少し卑近な例を挙げましょう。

私は今、社長という職に就いていますが、それは権限というより役割であり、責任です。

会社のため、社員のため、お客様のため、その他のパートナーのため、さらには国や地域・社会のためになるよう、役員・社員全員が貢献する中で、「社長」という役割を果たしているだけです。会社の目的を記した「理念」が社長よりも上位にあり、それに近づくためにできる限り私心を脱することが大切で、それが会社を代表するということの意味=責任だと思います。

 

国や都道府県の将来を左右する方々であれば尚更です。影響を受ける人の数が膨大な上、会社と違って(世の中のためになることが出来なかったから)倒産するというわけにはいきません。辞任しても、打った政策による影響は残るのです。

国を背負う気概を持って、短期だけでなく中期的な、さらには自分の寿命を超えた子孫の代までを見据えて、国民の豊かさと安寧を考える。そうすれば、私心に囚われる訳にもいかず、統治責任を放棄することもなく、思考・言動を続けられるのではないでしょうか。

 

古くは中国の古典:荀子の中にも「君は船なり、庶人は水なり」とあります。船が水次第で安定も転覆もするように、為政者が人民のことを考えた政治をしないと、いずれ崩壊するという意味です。

 

  • 国民の責任

まもなく参院選、その後(東京都在住の方は)都知事選と続きます。

「エリートの劣化」仮説が本当だとすると気持ちが滅入りますが、それでも未来を築く責任は、主権者である国民全体にあります。

たまたま素晴らしい人格と能力のある人が出馬・当選し続けるという幸運を祈るわけにはいきません。

 

その為には我々国民自身が、自己の利益や先入観に囚われ過ぎていないかを自己懐疑しながら、これまで以上に国の将来を考えること。

これがないと政治家やメディアなどに不安や不満を煽られて、ポピュリズムを促進する側にまわってしまいかねません。

 

そして、候補者の人格や考えを調べた上で投票し、選挙後も政治家任せにせず、(常に空気に流された無責任な発言になっていないかを自問しながら)意見を発信することで、少しずつでも政治家たちの言動に影響を与え、エリートを「良化」させていくという意識を持つことが必要ではないでしょうか。