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社長の「雑観」コラム

MS&Consulting社長、並木昭憲のブログです。 未来を担うビジネスマンや学生の方々に向けて、 政治・経済・社会・経営などをテーマに書き進めています。

Vol.48 続々 『国家のツジツマ』に学ぶ ~近代合理主義と二元論~

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 社長の並木です。前回お話ししたように、今回も『国家のツジツマ~新たな日本への筋立て~』(佐藤健志・中野剛志著 VNC新書)から、近代合理主義や二元論の危険性について学び、改めて考えてみたいと思います。

 

 「近代合理主義」というと一般の人は「合理的なんだろうし、古い慣習とかは面倒なので、いいことなんじゃないの」と思う方も多いでしょうが、負の側面も大きいようです。以下、同書を参照・引用しながらご紹介します。

 

 16世紀のヨーロッパでは宗教改革、そして宗教戦争が起こります。特に凄惨だったのは1618年に始まる三十年戦争で、ドイツでは人口の35%が亡くなられたとのことです。昭和の日中戦争と太平洋戦争での犠牲者が、当時の日本の人口の4%強ということですから、その凄まじさは想像を絶します。こうして、宗教によって統一されていた世界観が崩れ、新たな“よすが”が必要とされた時に生まれたのが近代合理主義なのだそうです。

 『初めは「われわれも理性を発達させることで、完璧な理性の持ち主である神に近づこう」といった調子で、理性への信頼と神への信仰をダブらせていた』のですが、自然科学・社会科学の発達に伴い、より「理性への信頼」に偏重していきます。こうして近代合理主義は完成の域に近づき、18世紀末までは一応社会も安定し、同時期に起こった産業革命によって、生活が豊かになったことも影響して『ヨーロッパ人は、「世の中も進歩するものなんだ!と思うにいたりました』。これは進歩主義と呼ばれます。そして1789年。その後の「進歩の暴走」と呼ぶべき現象の第一弾となるフランス革命という大動乱が起こります。

 フランス革命は、1793年にノートルダム大聖堂で「理性の祭典」を開いたように、『理性への盲目的崇拝という特徴を持っています』。近代合理主義と同様、フランス革命も自由・平等・友愛を掲げた市民革命として知られ、教科書的には良いイメージがありますが、国王を処刑したばかりでなく、その後も粛清の嵐。『テロリズム(恐怖政治)という言葉は、フランス革命から生まれた』のだそうです。革命初期の功労者を粛清し、恐怖政治を実行した人も粛清。有名なロベスピエールも1794年「テルミドールのクーデター」で逮捕・処刑されています。その結果ナポレオンが皇帝の座に就くのですが、更に暴走。ナポレオン戦争でヨーロッパを戦火に巻き込み、彼の没落後、各国の代表が集まったウィーン会議によって、フランス革命前の状態にヨーロッパを戻そうという合意がなされることになります。(以上、参照・出典:『国家のツジツマ~新たな日本への筋立て~』 佐藤健志・中野剛志著 VNC新書 『 』部分は完全引用)

 

 理性に従った合理主義が何故、テロリズムや混乱を巻き起こしたのでしょうか。恐らく、「理性」を『Vol.41 イズム・二元論の危険性』の投稿で、同じく中野剛志氏の著書である『日本思想史新論』(ちくま新書)から引用・紹介した「活道理」と「死道理」。すなわち「いつの時代、どんな状況でも『Aというやり方が常に正しい』と原理原則に固執するのは、道理や理性が死んでいる。世の中は常に変化し、状況や場面など環境も常に揺れ動くため、机上の論理どおりには進まない。その時、その場の状況に応じた柔軟な道理(活道理)を持って、判断し続ける必要がある」といった考え方の死道理の方で捉えてしまったためだと思います。

 

 それが顕著に表れるのが今回のテーマでもある「二元論」です。それに関する部分を続けてご紹介します。

 『合理主義には、二元論的思考という特徴があります。つまり物事を「あれか、これか」に分ける。で、このとき「あれも、これも、どちらも良い」とはならないんですね。

 どちらか一方が良くて、もう一方は良くないことにされる。二者択一思考と呼んでもいいでしょう』。(出典:『国家のツジツマ~新たな日本への筋立て~』 佐藤健志・中野剛志著 VNC新書)

 揺れ動く状況を考慮に入れず、「こうであるはずだ」という論理にとにかく合わせる「合理」では、人間の能力に限りがある以上、早晩歪みが生じるということの象徴的な出来事がフランス革命だったのかもしれません。

 

 しかし、現代を生きる我々も同じように「合理主義」や「二元論」に囚われていることが多いのではないでしょうか。もう少し引用させて頂きます。

 『国や社会のあり方、すなわちシステムについて、「弊害だらけのシステム」と「完璧なシステム」しか想定せず、「完璧でないからには弊害だらけに決まっている」と思い込む。(中略)

 この思い込み、まさしくデカルト的な二元論の産物なんですよ。(中略)「一長一短」とか、「どっちもどっち」といった評価をする余地はなくなります。

 そして既存のシステムは、完璧でないという理由で、「悪いもの」に分類される。となれば、もはや全否定しかありません。「オールクリアー」やら「グレートリセット」やらを断行して一切をチャラにしてしまい、「ゼロベース」の状態から完璧なシステムをあらためて作った方が良いという話になるのです』。(出典:同上)

 問題が起こった時に「〇〇叩き」が一斉に起こり、「抜本的改革」が叫ばれるというのは、むしろここ20年程で増えてきている現象かもしれません。

 二元論の危険性は、「その間にある選択肢を排除してしまうこと」。それ故、「状況に合わせてバランスを変えながら最適解を探り続けるという発想にならないこと」「異なる意見を持つもの同士の議論の余地をなくし、より良い解(アウフヘーベン)を求める道を閉ざすこと」にあります。「グレートリセット」的なワンフレーズポリティクスも同様です。

 さらに言えば、二元論ですから一見、二者の間では選択の自由がありそうですが、実際にはこれに加えて、印象的なワンフレーズや権威者の言葉を使って批判を煽ることで、限りなく議論し難い空気を作ることができます。(近代合理主義に影響を与えた)デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」だから「精神の方が、身体よりも上」といえば、普通の人には反論しにくいわけです。そうして思考停止に陥ってしまうと、全体主義に陥りやすくなるというのは以前書いた通りです。

 

 理論的に「何が正しいか」を決めてしまった方が、中庸で状況を観ながら考え続けるよりも、「スッキリしていて面倒臭くない」という気持ちはわかりますが、思考を止めるというのは大変危険なことなのです。その上、こうしたやり方をする人の中には、そういう空気をつくることによって、利益を得たいという人が含まれていることもありますから注意が必要です。

 

  • 当社内での話

 話が急に卑近になりますが、当社では先日、会社の理念や大切にしたい考え方などをまとめた「MSCスタンダード」という冊子を作成し、社員に配布しました。社員から自社の基準になるような考え方を整理したいという提案があって生まれたのですが、その冒頭に「基準といっても、何年にもわたって不変のものと考えている訳ではありません。環境が変わったり、思考が深まることによって変更が必要な場合は改訂していきます」と書き、「これを議論の題材にしてもらいたい」と伝えています。

 当社では「理念の実現が会社の目的」であり、「理念を大切にする経営が正しい経営である」と考えていますから、社員に「これ(理念や会社の考え方)はこれ。私は私」とニヒリスティックに構えて欲しくはありません。

 違和感を持ったら、思考し、議論し、理念やMSCスタンダードの内容を昇華させる方向、すなわち自分が会社や同僚に影響を与える方向で動いて貰えれば、それが更に他のメンバーの刺激になり、新たな思考を生みます。そういう循環を続けることが、自社の将来を築き続ける営みなのだろうと思っています。

 

  • 政治家への期待

 勿論、採用時点で理念を説明し共感した人に入社して頂ける企業と違い、国家の場合はとてつもなく大変でしょう。価値観は多種多様。利害関係者が複雑に絡み合います。しかし、それでも活道理的理性で、常に「現状と課題の的確な把握」「打ちうる多面的な施策」「関係者の利害や感情」「将来起こりうるリスク」を考慮し、調査し、議論し、配慮し、調整した上で、考え抜かれた政策とその背景にある世界観を説明し続けるという、根気や誠意・度量を発揮して欲しいと思います。その為には主権者である我々が、それを求めていかなければならないのだと思います。