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社長の「雑観」コラム

MS&Consulting社長、並木昭憲のブログです。 未来を担うビジネスマンや学生の方々に向けて、 政治・経済・社会・経営などをテーマに書き進めています。

Vol.43 「南欧の造園」と「大衆化しないための自己懐疑」

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 社長の並木です。最近読んで衝撃を受けた本の一つに『保守とは何だろうか』(中野剛志著 NHK出版新書)があります。

 

  • コールリッジの「南欧の造園」

 このブログでも再三、グローバリズムは今、歴史上初めて起こった現象ではなく、第一次世界大戦前にも第一次グローバリズムの時代があったこと。あるいは現在の世界同時不況の前に、1929年に端を発する世界大恐慌が起こったこと(厳密にいうとその後も、幾度となく金融危機バブル崩壊が発生していること)をお話ししていますが、同書では世界大恐慌の更に100年前、19世紀初頭のイギリスにおいてナポレオン戦争の終結に伴うバブル崩壊とデフレ不況が発生し、「1814年のピーク時には約四億ポンドであった国民総生産は、1820年代前半までに三億ポンドを下回るほどにまで縮小したと推計されているから、これは恐慌と言ってよい」(出典:『保守とは何だろうか』 中野剛志著 NHK出版新書)という歴史が語られ、更に詩人として知られる当時の知識人サミュエル・テイラー・コールリッジによって、ケインズの100年前に見事な処方箋が示されていたとのことです。

 彼の考えの根幹をなすものの一つ「南欧の造園」について同書を参照しながら説明します。コールリッジは国の経済を南欧によくみられる庭園になぞらえて、植物が豊かに生い茂る状態を好ましい経済状態としてとらえ、「その水槽あるいは貯水池は、一国の資本を表します。水の流れが、庭師(注:政府)の鋤(すき)によって少しずつ水路や方向が変えられていく様子は、資本の流れが課税と交易の相乗効果によって国民全体に行きわたるという愉快なイメージを与えてくれます」(出典:同上)と書かれています。水が足りない場合は水量を増やす(要は金融緩和です)。一方、水が溜まってしまって根腐れを起こすような場所からは水を吸い上げ(徴税)、乾いているところに水路を引く(財政出動)ことによって、「コールリッジは、ケインズ同様、国家の介入によって、国民所得を増やすことができる」(出典:同上)と考えていたのです。そして、コールリッジは乗数効果の重要性や、ある程度の労働規制がなければかえって「自由労働」の美名のもとに、雇用の不安定化や賃金抑制を生み(当時は幼児労働も行われていたことも含めて)、むしろ労働者の自由を狭める結果になると言います。さらに金融市場の不安定さを「賭博台」に例えている部分などは、後のハイマン・ミンスキーの「金融不安定性仮説」やスーザン・ストレンジの「カジノ資本主義」に通じるものです。

 

  • 歴史は繰り返す:「100年に一度の危機」は正しかった

 リーマンショックが起きた後、「100年に一度の危機」という言葉が使われました。世界大恐慌から100年という含意だったのだと思いますが、この言葉は少なくとも、コールリッジの時代も含めて、19世紀、20世紀、21世紀に関しては正鵠を射ていたことになります。因みに今の日本は政府債務残高がGDPの2倍ということで騒がれ、緊縮財政主義の論拠となっていますが、「19世紀前半のイギリスでは、国民総生産に占める政府債務残高が約300%に達し、現在の日本をはるかに上回る財政赤字を記録したが、財政は破綻しなかった。実際、歴史上、内国債(注:自国民によって購入される国債。自国通貨建て。因みに日本国債は九割以上が日本人によって保有されている)が返済不可能に陥ったという例は存在しない」(出典:同上。注部分は同書を参照して加筆)と中野氏は語っています。

 

 この本を読んで、改めて感じたことの第一は「歴史は繰り返す」ということです。物理学や技術、芸術の世界ならいざ知らず、政治・経済・経営という社会科学の分野では人はそれほど成長している訳ではなく、らせん階段を上に行ったり、下に行ったりしながら似たような風景を目にしているだけなのかも知れません。

 

  • 万能な処方箋を求めない

 もう一つ興味深いのは、コールリッジが政治や経済の専門家ではなく、詩人・哲学者として知られた人だったということです。たしか、ケインズも官僚や経済学者(但し、経済学の学位はなく、大学でも教授ではなく講師だったようです)である一方、投資家としての顔も持っていました。

 経済学者のダニ・ロドリック氏は著書の中で「本質的な問題は、経済学者が(中略)一般の人々と同じように偏った思考方法を持っているところにある。経済学者は、集団思考や自信過剰に陥りやすく、自分の望む説を支持する事例に過剰な信頼を置く一方で、それに合わないものについては無視する傾向にある。また、ブームや流行に追従する傾向があり、時流に応じて全く別の考え方を人々に広めようとする」(出典:『グローバリゼーション・パラドクス』 ダニ・ロドリック著 柴山桂太・大川良文訳 白水社)と言っています。

 経済に限ったことではなく、人間や社会に関わる分野では、万能で普遍的な数式や方法論をみつけたと思い込むこと自体が傲慢なのだと思います。人は論理だけでは動きません。そのため、ある分野を専門的に突き詰めた人よりも、(コールリッジやケインズのように)広い見識や経験のある人間の方が、事態の本質を掴み、より正しい方法論にたどり着くということがあるのではないでしょうか。

 またロドリックの、学者のような人たちでも「一般の人々と同じように」「ブームや流行に追従する」傾向があるという指摘は、前回ご紹介した「大衆」による「多数者の専制」に通じるものです。「大衆」とは一般人という意味ではなく、「その時のブームやイデオロギー、そしてそれに浸っている自分に考え深くならず、思考停止に陥ってしまう」ことでした。専門家・知識人と言われる人たちでも、自説に過剰な自信を持つことで、都合のよい情報ばかりを拾ってしまい、その結果、知的に思考しているつもりでも、結論ありきとなって、却って思考停止してしまう危険性があるということです。発言力のある人が大衆化をすれば、それだけ影響も大きくなります。

 これは経営でも一緒で、過去の成功体験に囚われすぎて環境に適応できず凋落した企業や、経営者の優秀さが、自信過剰となることで頑迷さに変わり、社員や顧客の声を聞き入れなくなって失敗した事例は数多くあります。

 前回、ナチスドイツのような「全体主義」は、大衆の感情と支持によって生まれ、恐怖と保身によって確立すると書きましたが、それと似た現象は上記のように企業でも、「いじめ問題」などのように学校でも起こりうるのです。

 

  • 自己懐疑の大切さ

 オルテガ・イ・ガセットは名著『大衆の反逆』の中で、大衆と選良を分けるものは、貴族・政治権力などの社会的な階級や財産の多寡ではなく、その人の持つ「自己懐疑・謙虚さ」だと語りました。自分の言動を振り返らず、利己的な面を「そうしたいんだからいいんだよ」「みんながそうなんだから、しようがないじゃないか」で片付けてしまうと、「自己満足の結果、彼は、外部からのいっさいの示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自己の見解になんら疑問を抱こうとせず、また自分以外の人の存在を考慮に入れようとしなくなる」(出典:『大衆の反逆』 オルテガ・イ・ガセット著 ちくま文芸文庫)。そして、自分の権利だけを主張し、その時の気分で振る舞う「甘やかされた子供」のようになってしまうといいます。

 自らが大衆化しないために、(逆に自分が大衆化する可能性があることを常に意識して)自己の振る舞いを振り返り、他者の意見を傾聴し、社会全体を観ようとする姿勢を持ち続けることが大切なようです。またそうした姿勢を身につけていくという道のりが、視野や見識を広げ、人間性を高めるということにつながるのかもしれません。