「雑観」コラム

(株)MS&Consulting社長、並木昭憲のブログです。 未来を担うビジネスマンや学生の方々に向けて、 政治・経済・社会・経営などをテーマに書き進めています。

Vol.134 『ヨーロッパの奇妙な死』と日本 ~『西洋の自死』より~

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『西洋の自死』(ダグラス・マレー著 東洋経済)を読みました。

副題に『移民・アイデンティティイスラム』とあるように、移民の大量流入で変容・自壊の道を歩むヨーロッパを、様々な事件、移民(難民)側への取材、さらには欧州人の精神的・思想的背景まで分析している(分厚さも相当なものですが)重厚な内容で、解説の中野剛志氏のおっしゃる『一つの偉大な文化が絶滅しつつあるその様には、身の毛がよだつ思いがするであろう』(同書P4)という所感がピッタリです。

 

もともとは2015年に世界第4位の移民受け入れ大国となり、

「移民流入」日本4位に 15年39万人、5年で12万人増|【西日本新聞】

先般、改正入管法可決に舵を切った日本の、一国民として勉強しておこうと読み始めたのですが、背景にも類似点が多いため、(引用が多くなりますが)一部をご紹介します。

 

  • 歴史的罪悪感

第一の類似点は「歴史的罪悪感」です。日本にも東京裁判GHQ占領政策を経て「自虐史観」と言われる、戦前・戦中の日本(人)を全否定する性向が生まれましたが、欧州も同じ症状を抱えているようです。

マレー氏曰く、

『原罪を背負って生まれてきたと感じているのは現代の欧州人だけではないかもしれない。しかし欧州人は明らかにそのことで最も苦しんでいるように見える。今日の欧州人は――他人がそのことを持ち出すずっと前から――自分たちが特定の歴史的罪悪感を背負うべきだと感じている。そこには戦争、とりわけホロコーストの罪悪感だけでなく、過去にかかわるあらゆる領域の罪悪感が含まれる。たとえば消えやらぬ植民地主義や人種差別主義の罪悪感などだ。』(同書P255~256)

 

こうした罪悪感は、往々にして国内で増幅します。

政治家が、自分の度量の大きさを示せる等の政治的思惑で謝罪を口にし、『知性と教養ある人々は、自分たちが育った文化を支えたり守ったりすることなく、むしろ否定し、攻撃し、おとしめることを自らの義務だと心得ているかに見え』(同書P400)る言動を繰り返し、世論が形成されていく、、、という具合。

そうすると、外交的に『政治家が自国の過去について絶えず謝罪しているように見える国は――やたらと謝る国もあれば、まったく謝らない国もあるという世界にあっては――しまいには罪悪感を抱く特別な理由がある国だと見られてしまいかねない』(同書P259~260)だけでなく、国内では自国の歴史的連続性を肯定できず自己不信に陥るため、アイデンティティ(誇りや愛国心)が薄まります。

 

  • 『移民大量受け入れ正当化の「言い訳」』(同書第3章のタイトル)

こうした土壌ができ上がると、大量移民に大衆は不安を感じていても、人道的な正当性をアピールされた時、例えば、以前ご紹介したエマニュエル・トッド氏の

『(歯止めなき移民受け入れ主義は)移動する外国人の権利を自国にとどまっている諸国民の権利に優先させ、諸国の住民を治安の行き届かない状態に置いています。そうしたイデオロギーは善意の外観にもかかわらず、実はアンチ・ヒューマニズムです。』(出典:『問題は英国ではない、EUなのだ ~21世紀の新・国富論~』 エマニュエル・トッド著 文春新書 P42)』

といった正論を発しにくくなります。

また同時に、低賃金労働者を欲する財界からの要請も、レトリック次第で通りやすくなる。

 

かくして欧州では、

『大規模な移民は我々の国々の経済を利する』『“高齢化する社会”では移民を増やすことが必要だ』『いずれにせよ移民は我々の社会をより文化的で、興味深いものにする(並木註:多様性は良いものだという価値感です)』『たとえ上記がすべて誤りでも、グローバル化が進む限り、大量移民は止められない』(『西洋の自死』P76)

という理由で――マレー氏は全てに反駁していますが――移民大量受け入れを正当化してきました。

こうした理由づけは日本の入管法改正時に使われたものと同じです。

 

この本の原題は『The Strange Death of Europe』。当ブログのタイトルに使った『ヨーロッパの奇妙な死』です。

「奇妙な」とあるように、もともとエリートが自国の経済や社会を豊かにすると思って、時に自信をみなぎらせて採用した“改革”が、今日の危機を生み出した可能性が高いのです。

しかし悪いことに、一つの理由が反論され、被害が生まれても、別の理由を編み出して結論を変えない。自分の誤謬を認めないというのは洋の東西を問わず、政治家・官僚・エリートの特性なのかも知れません。

 

さらに欧州では、リベラリズムパラドックスに陥ります。


中野剛志氏の解説から引用すると、

『エリートたちは、宗教的・文化的多様性に対する寛容という、西洋的なリベラルな価値観を掲げて、移民の受け入れを正当化してきた。しかし、皮肉なことに、こうして受け入れられたイスラム系の移民の中には、非イスラム教徒あるいは女性やLGBTに対する差別意識を改めようとはしない者たちも少なくなかった。このため、移民による強姦、女子割礼、少女の人身売買といった蛮行が欧州で頻発するようになってしまったのである。

ところが、ここからが読者を最も驚愕させる点なのだが、欧州の政府機関やマスメディアは、移民による犯罪の事実を極力隠蔽しようとしたのである。それどころか、犯罪の被害者すらもが、加害者である移民を告発することをためらった。というのも、そうすることによって、人種差別主義者の烙印を押されることを恐れたからである。

そして実際に、移民による犯罪を告発した被害者に対して人種差別主義者の汚名が着せられたり、あるいは告発した被害者の方が良心の呵責を覚えたりといった、倒錯としか言いようのない現象が頻発したのである。

この異常事態は、もはや「全体主義的」と形容せざるを得ない。寛容を旨とするリベラリズムがねじれて、非リベラルな文化に対しても寛容になり、ついには、人権、法の支配、言論の自由といったリベラリズムの中核的価値観を侵害するに至ったのである。まさに、「リベラリズム自死」と言ってよい』(同書P8~9)

 

『西洋の自死』は、『欧州は自死を遂げつつある。少なくとも欧州の指導者たちは、自死することを決意した。欧州の大衆がその道連れになることを選ぶかどうかは、もちろん別の問題だ。』(同書P12)という書き出しで始まります。

同書がベストセラーになり、著者が安全に生活をしている(作中、早期に警告を発した人たちが社会的制裁や文字通り生命の危機に瀕した事例が出てきます)ということは、ここに至って大衆が声を挙げ、エリートが認識を変えざるを得なくなっているのかも知れません。

欧州各国で、左右を問わず、移民制限を訴える政党が支持率を伸ばしていますし、フランスの黄色いベスト運動も「エリートの政治」に反旗を翻したものでしょう。

 

  • 国家主権

しかし、もう一つの問題はEU加盟国に「完全な主権がない」ということです。

EUに握られた主権を取り戻すために、英国はブレグジットを選んだものの、同じEUのくびきによって簡単に離脱できず苦しんでいるのです。

 

この点でも日本は、敗戦後、国の根幹に関わる安全保障を米国頼みにしてきた結果、少なくとも主権「意識」においては欧州より希薄と言わざるを得ません。

先日、プーチン大統領が、北方領土に米軍基地を置かないという安倍総理の方針に対し、「日本がこの問題でどの程度主権を持っているのか分からない」という辛辣な指摘をしたばかりです。

プーチン氏「日本の決定権に疑問」 北方領土と米軍基地:朝日新聞デジタル

 

仮にエリートであったとしても人間の考える政策は、かくも不確かで危ういものなのですから、マレー氏が指摘する通り、

リベラル派は『「リベラル」な移民政策を追求すれば、リベラルな社会を失う可能性があるのではないか』と自問し、

より保守的な考えを持つ人は、(移民等の政策で)『どれほど大きな恩恵を得たいと望んでも、その社会を根底から変えてしまう権利までは持ちえない。なぜなら自分たちが受け継いだ良いものは、次に引き渡すべきものでもあるからだ。仮に祖先の考え方やライフスタイルの一部は改善可能だという結論に達するとしても、だからといって次の世代に混沌とし、粉砕され、見分けもつかないようになった社会を引き渡すべきだということにはならない』(『 』部:同書P450~451)

という姿勢で、移民政策のみならず、経済や安全保障政策・国家や主権について考え直す時が来ているのだと思います。