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社長の「雑観」コラム

MS&Consulting社長、並木昭憲のブログです。 未来を担うビジネスマンや学生の方々に向けて、 政治・経済・社会・経営などをテーマに書き進めています。

Vol.98 「他人(ひと)のために」という経営観・仕事観・人生観

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先日、一年ぶりに上京した両親が実家に戻る帰り道、少し足を延ばして親代三代で靖国神社に参拝してきました。

ご存知のように、靖国神社には先の大戦をはじめ、1853年と言いますから黒船来航のあった年、明治維新前夜以降の様々な国難に際して、国の平安のために尊い命を捧げられた英霊が祀られています。

参拝する度に、他人(ひと)を救うため、国や子孫(つまり我々)を護るために亡くなられた方々の精神に触れる思いで、身が引き締まります。

 

 

戦争や戦死とは次元が違いますが、「他人(ひと)のために生きる」「他人(ひと)のために仕事をする」という精神性は、企業にとっても個人にとっても大切です。

「強欲資本主義」や「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉が生まれる現在だからこそ、今回は、そうした経営観・仕事観・人生観について考えてみたいと思います。

 

  •   「他人(ひと)のため」という経営観

ドラッカー氏は、『もしドラ』の原点にもなった名著『マネジメント』の冒頭で、

『企業をはじめとするあらゆる組織が社会の機関である。組織が存在するのは組織自体のためではない。自らの機能を果たすことによって、社会、コミュニティ、個人のニーズを満たすためである。』(出典:『【エッセンシャル版】マネジメント 基本と原則』 P.F.ドラッカー著 上田惇生編訳 ダイヤモンド社 P9)

と言っています。

『組織は、社会、コミュニティ、個人のニーズを満たすものである。それができずして、人に命令したり、資源を使ったり、空間を占有することが許されるはずがない。

社会のニーズに頓着しないでいられる組織は、崇高な宗教団体や利己的なギャング団ぐらいのものである。

その証拠に、役に立たなくなった企業や特殊法人がつぶれても、当事者以外は、誰も残念には思わないものである。

あまりに当たり前過ぎて、拍子抜けするぐらいである。つまり組織は、世のため人のためのものなのだ。

世のため人のためにあるとき、組織は繁栄する。逆に自分自身のためとなったとき、あっという間に左前、転落の一途をたどる。』

何のために存在するのか何のために活動するのかそれを考えることが経営だ|3分間ドラッカー 「経営学の巨人」の名言・至言|ダイヤモンド・オンライン

のです。

 

  •   他人(ひと)のため」という仕事観・人生観

こうしたことは企業の経営観として語られがちですが、一人一人が幸せな人生を送るためにも、この上なく大事だと思うのです。

やっている仕事は人それぞれ、様々ですが、本来、一つ一つの仕事は「自分以外の誰かのためになっている」から続いている筈です。

当社のように企業の顧客満足度や働く人のやり甲斐の向上に努めている会社の社員も、交通機関の運転手さんも、職人さんも、政治家や官僚も、お店や工場で働く人も同様です。

 

忙しい毎日の中で、忘れてしまいがちですが、自分の仕事の先でどんな価値(喜び・満足・便利さなど)が生まれているかに思いを馳せることで、仕事の尊さを実感し、誇りを持つことができます。

その誇りを原動力に、より多くの人に、より多くの価値を提供するための努力を続けることができ、会社は成長し、自分も物心両面で豊かになり、お客様や取引先が繁栄し、経済成長を通じて国家にも貢献できるのです。

そして、そういう仕事観を持った人は、子供に働くことの本当の意義を伝えることができ、子供も、両親と両親の仕事を誇りに思い、将来に希望が持てるでしょう。

 

一方の「今だけ、金だけ、自分だけ」では、短期的には「経済合理性」という曖昧な言葉で誤魔化すことができても、生き甲斐にはつながりません。

運の良い人は損失の出る前に逃げ切ることができるかも知れませんが、手元にお金が残るだけ。周囲の人を不幸にしてしまうのです。

会社の存続を確かなものにするためには利益が必要ですが、「経済合理性」というのは手段であって、企業の目的を示すものではなく、まして良い人生を定義するものでもありません。

 

ドラッカー氏が言うように、

『自分たちは何のために存在するのか、何のために活動するのかを考えること』

何のために存在するのか何のために活動するのかそれを考えることが経営だ|3分間ドラッカー 「経営学の巨人」の名言・至言|ダイヤモンド・オンライン

が先決なのです。

 

  • 利己主義の蔓延

現在、利己主義が広まりやすい環境にあります。

 

例えば、過度のグローバリズムによって底辺への競争(=国家間の企業誘致競争によって規制緩和と企業の海外進出が推進され、労働環境や自然・生活環境、社会福祉、賃金などが最低水準に近づいていくこと)が起こっています。

国内では、1997年以来、実に20年間もデフレが続き、国全体の需要が増えない中、パイの奪い合いとなり、コストダウン競争によって賃金が低下、すると需要がさらに冷え込んで、将来のための投資も抑制されています。

グローバル化に伴って輸入された、過度の株主資本主義はこの傾向に拍車をかけます。

こういう場合、民間の逆をいって不足する需要を補うべき政府も、なぜか緊縮財政。我々国民にとって、マイナスな政策であるにも関わらず、メディアや国民の過半がそれを賞賛する傾向も生まれました。閉塞感や将来不安から、誰か悪者を仕立てて叩きたいというルサンチマンが鬱積しているようにも思います。

デフレスパイラルを放置してきたことで、社会の紐帯(ちゅうたい:つながり、結びつき)を壊してしまった政治家や官僚、経済学者の罪は大きいと思います。

 

加えて、全くの私見ですが、社会・企業の中核~中堅を担う人たちが、手痛い「失敗」を経験していないか、「失敗体験」から学ばずに中途半端なエリート意識を持っていることも原因の一つなのではないかと思っています。

 

ちょっとした失敗であれば、スルーすることも結構ですし、「次はこうしよう」と学ぶことも比較的簡単ですが、私が言っているのは生き方や自分のあり方に悩む、これまでの自分の考えを否定するような経験です。

 

ある程度優秀な人が、本人が気づいているかいないかに関わらず、周りから守られていると、そういう経験をする機会がないかもしれません。そういう場合でも、例えばマネージャーになる前、少なくとも経営幹部になる前に、他者の経験であったり、読書であったり、知見を広げて、できるだけの疑似体験をすることが、将来のための財産になる筈です。

 

失敗に直面したとき、「どうせ ● ● なんか」と考える人が多いと思います。● ● には「自分」「自分を評価してくれない他者や会社、世の中」などが入ります。

この時、生真面目に「自分」だけの問題として解答を探しても、なかなか見つかりません。あらゆる事は周囲からの影響も受けているので当然です。自分を追い詰めすぎると鬱状態になってしまいます。

余談ですが、ちょっとカミングアウトすると、私も30歳前後に鬱病に罹り、数ヶ月間ほぼベッドの上で過ごしました。そうなる前に環境を変えることをお勧めします。

 

一方、過剰に「周囲」に責任を押しつけたり、自分に都合よく解釈=言い訳探しをするようになると、利己主義の芽が生まれるのではないでしょうか。実際には逃避しているだけなのですが、これまでの自分“像”は護れます。「自分を評価しない周囲・世の中がおかしい」と思ったり、「どうせ世の中こんなもの」と高をくくれば、ニヒリズムが強くなります。ニヒリズムとは虚無主義。物事の意義や目的に価値がないという考え方です。先ほどのドラッカーの言葉の逆をいく思想ですね。

こうなると、生き方を変えられないばかりか、価値基準がなくなってしまいますので、金銭や名誉など簡単な物差しに囚われてしまいます。

 

最後に、正面から懊悩しながらも自分の問題と周囲の問題をどこかで客観視し、自分を正しつつ、周囲の問題からも他山の石として学ぶ道があります。これができれば苦悩した経験が将来の糧、考え方の礎になるのです。

自分を客観視するというのは簡単なようで難しいですが、「これまで何度か壁にぶつかったけれども、何とか乗り越えてきた」という自己肯定感と、自分を生み・育て・支えてくれた人たちや環境・歴史への感謝の気持ちを大切にし、人生を真面目に生きている仲間達に支えられることで実践できると思います。

 

以前もご紹介しましたが、西欧にはノブレス・オブリージュという言葉があります。「高貴さ(当時は王族や貴族、一般的には財産・権力・社会的地位など)には責任が伴う」という意味です。先ほど「中途半端なエリート意識」という言葉を使いましたが、本来のエリートは逆で、自分に関わる人たちの幸せを守る義務があるのです。