社長の「雑観」コラム

MS&Consulting社長、並木昭憲のブログです。 未来を担うビジネスマンや学生の方々に向けて、 政治・経済・社会・経営などをテーマに書き進めています。

Vol.80 英語教育偏重への警鐘 ~『英語化は愚民化』に学ぶ~

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  •  英語教育への偏重:個人・企業と国家の違い

昨今、英語教育早期化の議論が進む一方、大学でも2014年から「スーパーグローバル大学創成支援」プロジェクトが始動し、英語で行う授業数の多寡が重要な審査基準となるなど英語教育への偏重が進んでいるようです。

また、産業競争力会議の下にあるクールジャパンムーブメント推進会議が英語公用語特区、即ち日本でありながら公的な場では英語を使う地域をつくるという、にわかには信じがたい提案を行うなど、英語化こそが日本の発展する道だと言わんばかりですが、果たしてそうでしょうか。

日刊ゲンダイ|施光恒・九大大学院准教授「英語押しつけで日本人は愚民化」

 

誤解のないよう最初にお断りしておきますが、私は一生懸命英語を学んでいる人や、自分が苦労した経験などから子どもの英語教育に熱心な方の考えは尊重します。

それどころか、ここ数年で英語を社内の公用語にした企業についても、目くじらを立てようとは思いません。これからは英語を使うと言われた社員の皆さんのご苦労はあると思いますが、それぞれの会社に経営思想や事情(従業員の外国人比率や世界各国での売上規模など)があり、一方で転職するという選択肢もあるからです。

私は日本語以外話せませんが、他国の方々と自由にコミュニケーションのとれる人を羨ましいと思いますし、海外との関わりを持つ上では英語などの外国語も必要になります。外国語に堪能な人たちが政治・経済・教育などの分野で活躍。交渉したり、新たな考えを翻訳してくれないと発展が制限されるという側面もあるでしょう。


ただ、国家・国策となると話が違うと思うのです。

 

  • 『英語化は愚民化』:母国語による教育の重要性

その危険性について、政治学者で九州大学大学院准教授の施 光恒(せ てるひさ)氏の著書『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』(施 光恒著 集英社新書)をご紹介しながら考えてみたいと思います。タイトルこそ刺激的ですが、母国語の大切さを説明した真面目な本です。

 

同書の第三章『「翻訳」と「土着化」がつくった近代日本』には、初代文部大臣もつとめた森有礼を筆頭に、明治初期にも「英語公用語化論」が主張されたと書かれています。

ご存じのように、当時の日本は欧米列強の植民地化を避けるために、近代国家の建設を目指していましたが、その為に必要な語彙が全く足りなかったためです。同書では「社会」「近代」「経済」という言葉が例示されていますが、「権利(権理)」「自由」なども福沢諭吉西周(にしあまね)などが翻訳して生まれた言葉です。

 

その森有礼から意見を求められた外国人の方々が、彼の『勇み足を諫めるような』返答をしたくだりが示唆に富んでいますので引用します。

イェール大学教授ウィリアム・D・ホイットニー曰く、

母語を棄て、外国語による近代化を図った国で成功したものなど、ほとんどない。(中略)そもそも、英語を日本の「国語」として採用すれば、まず新しい言葉を覚え、それから学問をすることになってしまい、時間に余裕のない大多数の人々が、実質的に学問をすることが難しくなってしまう。その結果、英語学習に割く時間のふんだんにある少数の特権階級だけがすべての文化を独占することになり、一般大衆との間に大きな格差と断絶が生じてしまうだろう』。

『多数の国民に新奇な言語を教え、彼らを相当高い知的レベルにまで引き上げるには大変長い時間を要するでしょう。もし大衆を啓蒙しようというのであれば、主として母国語を通じて行われなくてはなりません』(出典:『英語化は愚民化』 施 光恒著 集英社新書 P71-72)。

そして、お雇い外国人であったダビッド・モルレーも、

『教育とは、前世代までの伝統の蓄積に立って行われるべきものであり、まったく新しい基礎の上に成り立つものではない』。それ故、『たとえ明治初期の今、日本語で西洋の学問を講じるのが難しくとも、将来は日本語で教えられるようにならなければ、全国に教育が普及するには至らない。将来は日本語で教えるように改めなければならない』(出典:同上 P73)

と論じたそうです。

 

一方国内でも、福沢諭吉自由民権運動家だった馬場辰猪(たつい)などが英語公用語化に反対。馬場氏の主張は、主に以下の四点だったそうです。

『第一に、英語学習には大変な時間がかかり、若者の時間の浪費につながりかねない。(中略)

第二に、英語を公用語化すれば、国の重要問題を論じることができるのが、一握りの特権階級に限られてしまう。(中略)

第三は、英語の公用語化が社会を分断し、格差を固定化する(中略)。

第四の問題点は、英語を公用語化すれば、国民の一体感が失われてしまう(中略)。』

(出典:同上 P79-80)

 

多くの人が共通の問題意識・見識を持ち、議論が行われたことがうかがえます。

当時の日本政府は、当初こそ英語や外国人教師に頼ったものの、日本語で教育を行う道を選びました。その為、夏目漱石は後年、『学生の英語力低下は、「日本の教育が正当な順序で発達した結果」で「当然の事」だと断言』(出典:同上 P95)した訳です。

 

明治の先人達が大変な努力で成し遂げてきたことを、今の政策関与者が安易に翻してよいものでしょうか。

人間は自分が育まれた母語で思考するとき、最も創造性を発揮しやすいですし、微妙な感覚を伝え、皆で知恵を絞ることもできます。母国語で学び、考え、語る方が、多くの人々の能力が発揮されるのは当然です。そうして日本は、近代化を実現したばかりでなく、国民全体の力で発展し、先進国の仲間入りを果たしたのです。ということは、(あまり好きなスローガンではありませんが)『一億総活躍』のためには必要不可欠なのではないでしょうか。

 

それだけでなく、上記の方々が語っているように、国策として英語化を進めると国家の分断と民主主義の危機につながりかねないという危機意識も持っておく必要があります。

大げさに感じる方もいらっしゃるでしょうが、英語化に限らず、世の中に新しい風潮が広まり、何となく抗えない、反対できない空気のようなものが生まれるというのは実は怖いことなのです。そうした時、『明治時代までは「水を差す」という方法を、民族の知恵として、われわれは知っていた』(出典:『「空気」の研究』 山本七平著 文春文庫 P87)と言ったのは評論家の山本七平氏でした。

企業における変革ならともかく、国家単位の改革は、反対論で水を差し、議論を重ね、歴史に学びながら慎重に進めないといけないのです。

 

  • 日本の役割

ところで、教育から経済思想に目を転じると、こうした英語偏重の空気が形づくられてきた背景に、グローバル資本主義の浸透による、ビジネス界からの要請があるのは勿論ですが、日本人の中にある「小国幻想」とでもいうような気分も影響しているように思えます。日本人の良さである「謙虚」を通り越して、「日本は脆弱で、輸出しないと生きていけない」という類いのものです。

 

私が子ども~青年の頃、日本経済は好調でしたが「エコノミックアニマル」などと呼ばれ、何となく悪いことをしているような気分になったものです。

そしてバブル崩壊後は好調な他国を見習えという論調が増え、韓国を見習え、ドイツを見習えと言われました。そして中国が急成長してくると過剰に顔色を伺うといった具合です。

バブル崩壊・デフレで「失われた20年」を経た今でも、日本は世界第三位のGDP、世界第二の内需を持つ大国であり、大国には大国としての役割があるという事実を認識すべきでしょう。

 

世界的に需要不足の今日、新興国ならいざ知らず、市場規模が大きく、資金も十分な日本が果たす役割は、グローバル化に都合の良い英語化で外需を取り込むこと以上に、消費増税以来冷え込んでいる消費を増やす(その呼び水として政府支出を増やす)ことで、内需中心の成長を再現し、むしろ輸入を通じて他国のGDP成長にも貢献することではないでしょうか。

輸出するにしても、先日、東京モーターショーで自動運転や燃料電池車など次世代自動車・次世代技術が話題になったように、先人達が築いてきた技術力などの日本の優位性を、主に母国語を使った国民全体の創造性によって更に磨き、次世代を先導するようなものに力を入れていくべきでしょう。

その方が、随分魅力的な未来だと思います。