社長の「雑観」コラム

MS&Consulting社長、並木昭憲のブログです。 未来を担うビジネスマンや学生の方々に向けて、 政治・経済・社会・経営などをテーマに書き進めています。

Vol.42 ハンナ・アーレント ~思考停止する大衆と思考する人間~

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 社長の並木です。先日、映画『ハンナ・アーレント』を観てきました。

 

 ハンナ・アーレントという女性は1906年ユダヤ系ドイツ人として生まれ、第二次世界大戦中にナチスからの迫害を実体験。アメリカに亡命後、1951年に大著『全体主義の起源』を発表した政治哲学者です。

 また、全体主義とは「個人の全ては全体に従属すべきとする思想や運動、体制」を指し、ドイツのナチズム、イタリアのファシズムソ連スターリニズムなどがその代表として挙げられます。この体制の国家では、一般的に一党独裁体制が敷かれるようになります。前回イズム(主義)について少し触れましたが、全体主義はTotalitarianismと呼ばれながらも、政治経済面での理論的な支柱がある訳ではなく、主に人びとの「不安や嫉妬」のはけ口や「欲」の充足を謳うことで大衆の熱狂を生み、支配体制を確立した後は秘密警察などを使った「恐怖」をブレンドしてそれを維持するという点に特徴があります。

 ドイツにおける第一次世界大戦の敗北、その後(当時の経済の心臓部であった)ルール地方のフランスによる占領。占領終了後は回復期を迎えるものの、世界大恐慌において40%を超える最悪の失業率という歴史の中でナチスは台頭し、大衆の支持を集めることで独裁体制を敷き、ユダヤ人虐殺などを繰り広げていきます。

 

 映画では、『全体主義の起源』と並ぶ彼女の代表作『イェルサレムのアイヒマン』発表前後の様子が描かれています。

 アイヒマンはナチス親衛隊で450万~600万人の犠牲者が出たといわれるホロコーストに関与し、ユダヤ人の強制収容所への移送を指揮した官僚で、アルゼンチンでの逃亡生活の後、1960年にイスラエルの諜報部隊モサドによって逮捕され、イスラエルで裁判の上、処刑されます。そのアイヒマンは、性格破綻者でも残虐な殺人鬼でもなく、裁判の中で「命令を実行しただけ」「ユダヤ人を憎んでいたわけではないが、こうするよりほかなかったのであり、罪があるとは感じていない」と繰り返す一官僚にしか見えませんでした。

 ハンナ・アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』の中でそれを「本当の悪は平凡な人間が行う悪である、私はそれを“悪の凡庸さ”と名付けました」(映画『ハンナ・アーレント』オフィシャルサイトhttp://www.cetera.co.jp/h_arendt/)と語ります。言い換えれば、全体主義の圧力の中で「思考停止」に陥り、唯々諾々と、また効率的に命令を処理する“優秀な”官僚が為した悪です。

 ここで教訓として注目したいのは、全体主義が大衆の感情と支持によって、即ち同じ政治思想家のアレクシス・ド・トクヴィルの言った「民主政治化で行われ得る、世論という“多数者の専制”」から誕生し、全体に対して有害な者は排除されるという恐怖や保身、共同体の破壊による不安などから「思考停止」に陥った状態で運営されるということです。

 そして、当のハンナ・アーレントも、アイヒマンに対する考察が、ナチスの蛮行を過小評価するものと受け取られたことと、特に同書の中で当時のユダヤ人指導層のナチスへの協力にまで触れたため、「公然の秘密とされていたことにアーレントが切り込んだことは、ユダヤ人たちの困惑と憤激を呼び起こした」「(同書の原稿が)雑誌『ザ・ニューヨーカー』に連載中からアーレントはさまざまな攻撃にさらされ、彼女はニューヨークで親しかったユダヤ人の友をほとんど失っている。アメリカとイスラエルとドイツで、彼女への約2年にも及ぶ誹謗キャンペーンが行われ(た)」(共に出典:『ハンナ・アーレント』フォー・ビギナーズ101 杉浦敏子著 現代書館)という経験をします。これも大衆の激情と言えるでしょう。

 

  • 単なるマスから思考する人間へ

 さて、評論家の西部邁氏は前出のアレクシス・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』(1巻1835年・2巻1840年刊行)を引用しつつ、『一般に、アメリカにおけるほどに精神の独立と真の言論の自由との少ない国はないのである。・・・アメリカでは、多数者は思想の周囲に恐るべき柵をめぐらしている。その限度内では著作者は自由であるが、その限界から外に出ようとすると、彼に不幸が降りかかってくる<以上、引用部>』『この文章のなかの「アメリカ」を「戦後日本」と取り替えてみられよ。私ならば、衷心より、トックヴィルの予告が地球の反対がわで現実のものになったのだと思わずにはおれない』(共に出典:『思想の英雄たち』 西部邁角川春樹事務所)と語っています。正に柵を出たことでハンナ・アーレントは批判の嵐に晒されたわけです。

 一方で、戦後日本という言葉が縁遠ければ、現代日本でよいのですが、前回の投稿で「グローバリズム」「公共事業悪玉論」「脱原発」などを例に紹介した「思考停止」とも言える状態は、現実に日本起こっている現象です。

 西部邁氏は、大衆という言葉について『「マス」という英語に「大衆」という日本語を当てたのは、(それが民衆の代替語となり、むしろ正価値を持ってしまっているため)返すがえすも残念な成り行きでありました。マスというのは、砂山や穀物山のような「ばらばらな個の巨大な集積」のことです。<中略>その時代のイデオローギに、<中略>何一つ「懐疑」を差し向けずに、それに慣れ親しんでいる自分についていささかも「考え深く」はないこと、それが(マイナスの価値を持った)「マスマン」の特徴なのです』(出典:『昔、言葉は思想であった』 西部邁時事通信社 ( )部は同書を参照して補足記載)と述べています。

 日常の中で、世論に流され過ぎず、自分で思考を続けることで判断力を養い、変わった意見をいう人がいれば、(何しろ多数と意見が違うというだけで立場が弱くなるのですから)むしろ、彼には何か別の真実がみえているのかも知れないと思って意見を聞いてみるという姿勢が自分と、会社など自分の属する共同体の将来を歪めないために必要なのだと思います。