「雑観」コラム

(株)MS&Consulting社長、並木昭憲のブログです。 未来を担うビジネスマンや学生の方々に向けて、 政治・経済・社会・経営などをテーマに書き進めています。

Vol.28 国際金融のトリレンマ ~ブレトンウッズ体制からグローバリゼーションへ~

f:id:msandc:20130719152127j:plain

 社長の並木です。前回まで「国家運営」と「企業経営」の違いについて考えてきました。これから何回かにわたって「経済の現代史」を紐解きながら、いまの日本や世界経済の問題点を考えてみたいと思います。このエントリーはVol.15「世界恐慌の教訓 ~歴史に学ぶ~」(http://goo.gl/y1KTu)の続編でもあります。グローバリズムは、いま初めて起こったことではなく、第一次グローバリズムは二度の世界大戦を経て終息したことを記憶に留めておきましょう。

 

  • 国際金融のトリレンマ

 さて、「国際金融のトリレンマ」というものがあります。

・自由な資本移動

・固定相場制

・独立した金融政策

の三つのうち二つまでしか同時に実現できないというものです。戦後のブレトンウッズ体制では、「強いアメリカ」を背景に、金本位制からドルの基軸通貨体制に変わり、金融政策の自由度がそれまで以上に増した上で、固定相場制をとったので、必然的に「資本の自由移動」が制限されていました。そのお陰で、各国が内需を重視し、不足する部分を適度な自由貿易で補いながら、西側諸国の繁栄が実現しました。この時代についてフランスの著名な歴史人口学者であるエマニュエル・トッド氏は次のように語っています。

 「1970年代まで続く経済繁栄の時代がありましたが、当時は、経済がまだナショナル・レベルで発展していました。そこでは、財界の指導者、そして組合も、戦争の歴史から得た教訓を活かしていた。経済は、生産と消費の関係に基づいて運営され、とくに当時の経営者たちは、自分たちの労働者の給料、賃金を上げれば、同時に需要も上がることを理解していた。ですから技術革新によって、生産性を上げ、賃金を上げることによって、需要をさらに刺激することができた。フランスでは『栄光の三十年』と称された時代です。」(出典:E・トッドほか『自由貿易は、民主主義を滅ぼす』藤原書店)

 その状況に変化が訪れたのが、1971年のニクソンショックです。それ以降のドル円の為替レートの概略を「ウィキペディア」で見つけましたのでご覧ください。ニクソンショックと、1985年のプラザ合意を経て、急激な円高、すなわち変動相場制が定着していきます。

f:id:msandc:20130716121803j:plain

 出典:ウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%9B%B8%E5%A0%B4

 

 一方、「社会実情データ図録」のホームページに世界の貿易規模と海外直接投資規模のGDP比のグラフがありましたのでご覧下さい。

f:id:msandc:20130716121602j:plain

 出典:社会実情データ図録(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4900.html

 

 貿易に関してはともかく、海外直接投資規模は1980年代中盤まではそんなに伸びていません。これは「金融の自由化」の制度設計が進んでいなかったからです。つまり、この間は

・自由な資本移動  ・・・△各国の規制

・固定相場制    ・・・×変動相場制への移行

・独立した金融政策 ・・・○

という状況でした。

 

 ニクソンショック以降の経済史は、1973年:第一次オイルショック・日本の高度成長の終焉。1978年:第二次オイルショックと続きます。

 第一次オイルショックでは日本でも狂乱物価といわれるインフレが起こりましたが、第二次オイルショックは上手に乗り切りました。一方、アメリカでは主に利下げのタイミングを誤り、第一次はもちろん、二次の時も同等の狂乱物価を引き起こしてしまいました。結果、物価を安定化させるために高金利を続けざるを得ず、ドル高が続き、日本やドイツからの輸入が増えて「貿易赤字」が拡がり、失業が増え、産業空洞化が始まります。この当時、レーガン大統領がインフレ対策の為に打ったのがレーガノミクス新自由主義」です。

 一方、財政支出の面では、冷戦下のため、新自由主義らしからぬ行動。すなわち、軍事費を中心に積極的な財政出動(インフレ促進策)を進めます。その結果として「財政赤字」も拡大し、「双子の赤字」と呼ばれるようになります。

 そうした状況への対策としてドル安政策「プラザ合意」(1985年)が行われます。その結果、日本は円高不況に突入。金融政策を中心に、何とか数年で乗り切った後、逆にバブル景気を生んでしまいます。

 

 アメリカは対円やマルクでドル安に引っ張ることに成功したものの、現在に至るまで製造業の復活、貿易黒字化は実現していません。こうした中で金融やITに経済の軸足を移していきます。また、新自由主義が台頭したことで、市場に全て任せることが正しいという考えが固定観念になっていきます。その二つが融合し、金融自由化(規制緩和)が進みます。アメリカでは1933年に制定された金融規制「グラス・スティーガル法」を1980代半ばから緩和し始め、遂に1999年に廃止します。それと並行して英国でも1986年に金融ビッグバン。日本は少し遅れて、1997年前後に消費税導入と金融バッグバン、日銀法改正などが行われ、以来デフレに突入します。

 

 こうして国際金融のトリレンマは

・自由な資本移動  ・・・○規制緩和

・固定相場制    ・・・×変動相場制

・独立した金融政策 ・・・○

と変化しました。本格的な金融資本主義の到来です。その状況の変化は、金融工学分野にもイノベーションを起こし、今となっては悪名高い不動産担保証券債務担保証券といった金融派生商品が生まれます。

 政治の分野では1991年のソ連崩壊によって「自由主義の勝利」が叫ばれ、「自由市場」に対する期待が過剰になったことも影響します。国際的な貿易体制に目を転じても、第二次世界大戦後のGATT体制は「協定」にとどまり、比較的、各国の国内政策と貿易自由化双方を考慮していましたが、ウルグアイラウンドを経て、1995年に「自由・無差別・多角的通商体制」を掲げ、サービス貿易への門戸を拡げた「機関」であるWTO(世界貿易機関)体制となり、時代が移り変わっていきます。

 

 自由貿易や資本の自由移動というのは新興国にとってはありがたいことです。安い労働力と他国の資本を生かし生産し、輸出で稼ぐことができます。一方、先進国も好況のうちは安い輸入品の消費で潤うため、好循環が生まれます。そしてアメリカ、ユーロ、中国をはじめとする国々は日本を尻目に経済成長を謳歌します。

 一方、日本のバブル崩壊の影響は国内にほぼ限定されていました。それに対して、サブプライムローンバブルの崩壊・リーマンショックは、金融のイノベーションとグローバル化によって、世界的に影響を与えることになったのです。

(次回に続く)